ニートの哲学日記

生き生きするための日記

絵とやってみたいことと悪口

 今日はなぜか文章を書きたい気分なので2つ目を投稿してみようと思います。

 

以前形にする方法について迷っているということを書きましたが、やっぱり絵にしようかなあと思っています。理由はお手軽だからです。下にのせている絵はアンリ・マティスの絵を見ながら描いたものです。線をたくさん使わず、影もないのに魅力的だなあと思いました。今後もマティスの絵を真似したり、うまくなってきたら自分で考えて書いてみたいと思います。壁を見ていると壁紙の微妙な模様がなぜか人の顔に見えてくるようになりました。それを書いてみるの面白そうです。

 物体の特徴であるセンターをとらえてそれを書くとその物体をうまく表現できると思っています。動物や植物のセンターをとらえてそれを椅子や壺など他の物に取り入れながら描くとおもしろそうだと思いました。例えばペンギンっぽい椅子とかができるわけです。多分とても難しいですが少しずつチャレンジしていきたいです。かけたら投稿してみます。僕は絵が下手なのでもう少しうまくなる必要もありそうです。

 

 全く別の話ですが、僕は初めて会う人と話すときに僕の話した内容を誤解されがちです。コミュニケーションには話し手と聞き手がいます。話し手の脳で考えたことを言語化し、それを聞き取った相手はその言葉を脳で理解します。脳→言語、言語→脳この二つのフィルターがかかるためコミュニケーションは難しいと考えています。フィルターはどちらにせよ薄いほうが良いということです。僕は話すときに癖があって、意識的にせよ無意識的にせよ、言葉の通りの意味を使います。聞き手側に裏の意味があるのではないかと考えられてしまうため、誤解されます。誤解されないためには、その誤解をケアするための言葉を付け足したり言い回しを別の言葉にする必要があります。正直それは面倒だし、話したいことの本質から離れていくかもしれないのでやりたくありません。だから、聞き手が悪いと思っています(笑)。僕の嫌いな聞き手の人はおそらく、自分がこの言葉を使うとしたらこういう意味を含ませて使うからこの人もそうだろう、と思っているのかなあと感じます。人は自分のことを思っているより知らないし、まして他人ことなどわかるはずもないのにそういう思考になるのは頭が悪いとさえ思っています(笑)。少し誇張して悪く言いましたが、概ねあっています。数年前までは、聞き手側を悪者とするのはダメだと考えて、表現の仕方を変えようとしていましたが、伝わらない人には伝わらないし別に良っか!、と思うようになりました。あいつらが悪い!

 

人を悪く言うようなことは自分をしょんぼりさせますね。

 

終わり

 

日常2

 今日は朝から業務スーパーに行って買い物をしました。ニンニクを1キロ買ったのでペペロンチーノ生活が始まりそうです。

 家でゲームをしたり漫画を読んだりしているときと、ブログを書いたり絵を描いたりしているときの心境の違いはどこから来るんでしょうか。ゲームをしているときは楽しいながらもどこかむず痒いような感じがします。でも友達とゲームをするときはそんなことはなかったりもします。ブログを書いているときは何か進んでいるような感じがして気分は良いです。進んでる感というのが大事なのでしょうか。

 進んでいる感を感じるために人は何かに取り組むのかもしれないと思いました。収入なのか評価なのかまたはそれ以外かはわかりませんが、おおざっぱな指針がそれぞれの人にあって、それに向かって進んでいる感を感じるときにむず痒さはない気がします。そういう人を見ると元気が出る気がします。

 僕はどこに進みたいのかを考えないといけないと思いました。

 

終わり

 

絵を描いてみた

 アンリ・マティスの絵を見ながら描いてみました。自分が思うままに描くのとは違って生命を感じます。同じ材料を使うのにこんなに違うんだなあと思いました。まつ毛の角度など部分的な線が少し違うだけで絵の印象は大分違ってきて、部分は全体にまた全体は部分に影響を与えることを実感しました。前回の投稿から3日経ちましたが、今のところは毎日絵をかくことができています。3日坊主にならないように頑張ります。

 

前回の投稿は18人もの人に見てもらっていて今うれしい気持ちです。タグをつけたのが良かったのか、フォローしてみたのが良かったのかわかりませんが、ニートなりに頑張るのでまた見てほしいです。

 

終わり

 

日常

今日はピザを食べました。久しぶりに食べたのでおいしかったです。

自分の考えていることを形にしたいですが、手段を持っていません。絵は下手だし、工作系はお金がかかります。下手だけど絵をかいてみようかなとも思ったりします。陶芸や生け花にも興味があります。もっと範囲を広げると家具や建築などにも興味があります。いずれにしろ形を作ることが僕にとっては重要です。だから絵は少しずれている感じもしますが一番とっかかりやすいので迷います。とりあえずやってみようというのも大事ですが、よく考えてから行動するのも大事です。

とりあえずやりながら行動すればいいか。

気が向いたら絵をかいてみようと思います。

センターをもっと明確にとらえられるようになりたいです。

 

全体性

 今の私たちにの中に無意識のうちに(あるいは意識している人もいると思いますが、)使っている頭の使い方(物の見方)は『分離と分解』と言えると考えます。何かを理解するときに、分離の段階と分解の段階を踏みます。分離の段階では、世界から対象を分離させます。また、自分自身からも対象を分離させます。分解の段階では、その二つの意味で分離させたものを細かく分解していきます。特にビジネスの場面ではこのような頭の使い方が適していると考えます。

 しかし、『分離と分解』の思考法は万能ではありません。すべての物の見方に適応できるわけではありません。その例として芸術が挙げられます。何が美しいのかという疑問は人それぞれであると認識されており、『分離と分解』の思考法を用いても美しさについて測ることはできません。

 『全体性』の物の見方は『分離と分解』の物の見方よりもより普遍的な物の見方であると考えます。何かものを見るときは、その物だけではなくそのほかの様々な付帯するものも含めて考える、つまり全体としてとらえるということです。木になっているリンゴを見て美しいと感じたとします。リンゴの美しさは、リンゴの芯の部分、葉っぱ、枝、幹、木全体、さらには他の木、地面、背景の空、、、などそれぞれの調和によって感じ取るということです。

 

終わり

生きる

 生きる意味は無いと思っています。ですが、生きるうえで生き生きとした状態を保ちたいのはみんなそうだと思っています。

 生き生きとした状態のものはその生き生き感を僕たちに分けてくれます。自然が良い例で海や花や山など、生命の力強さのようなものを分けてくれます。

 世界は秩序で出来上がっています。街も建物も自然も人の顔も秩序だっています。秩序でできたものに対して私たちは生命の力強さを感じたり感じなかったりします。つまり生き生きとして見える秩序の配列があり、それを理解することができれば、自然のような生命の力強さを持った人工物を作ることができると思います。僕はそんなものを作りたいです。

 生命は人や動物だけが持っているものではないと思います。きれいに咲いた花は生き生きと感じるし、死んだ魚のような顔をしているという表現もあります。素晴らしい芸術作品を見て感動するのは、その無機物が生命を持っていいるからだと思っています。

存在するすべてのものは生命を持っており、その生命の力強さが強いものや弱いものがあるということです。

 生命の力強いものは、僕たちに生き生きとした感じを分けてくれて私たちは、より生き生きとした生活を送れます。

 

終わり

16日目

前から何かやろうと思っていましたが、考えだけが先走りして行動に移せずにいました。ブログをやってみようと思って、アカウントを作ってから4日経っていました。今日も何か書く気分ではありませんでしたが、いつものようにケータイをいじりながら、ベットではなく久しぶりにパソコンの前に座ると書いてみようという気分になりました。そういう気分になることを期待していたので、良かったです。

 何か書こうとすると頭を使うので、部屋の壁を見ています。パソコンやスマホの画面や人の顔とかは情報量が多いので、僕は考えるときには無意識のうちに見なくなります。今、久しぶりに帰ってきた実家の壁を見ていますが、カレンダーが二つあることに気づきました。実家に戻ってきたのは2週間ほど前なのに今気づきました。

 できれば毎日投稿する習慣をつけたいですが、たぶんできないと思います。でも、毎日パソコンの前に座ることならできる気がするのでそうしようと思います。

    

終わり